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自分の手で望みをかなえること


昨日、料理家の高山なおみさんの本を読んでいたら、そこにでてくる「中国家庭風ゆで餃子」というのを、突然食べたくなった。
読んだとたんに、幡ヶ谷のニーハオが浮かんだ。あれだ、あんな餃子だ。
あれが、自分でつくれるなんて。というか、どうして今まで自分でつくろうと思わなかったんだろう。

食べたいと思い始めたら、もういてもたってもいられなくなった。
皮から手打ちする餃子を、ひとり食べるのは寂しすぎる。近所に住む妹に連絡する。
そうしたら「私も、ちょうど餃子つくりたいと思ってたところ」という言うではないか。
彼女は羽つきの焼き餃子のイメージだったけれど、とにかく今日はゆで餃子にしようと押し切った。

あの餃子を、今晩、自分で、つくるんだ、という喜びで、顔がほころぶ。
にやけた顔のまま、足りない材料を買い出しに行って、スキップしかねない勢いで家に戻る。

強力粉をこねてまとめてねかせ、肉をきざんで種をつくったところで妹がやってくる。
妹がこねている間に、私はスープの準備をする。

そして、餃子つつみの時間。
妹が皮を丸く伸ばし、私が種を包み込む。

「餃子なんてつくったの何年ぶりかな」
「ニーハオに行くようになったのはまだ昔のパートナーといたころだよ」
「確かに、香港人のボーイフレンドは、餃子は焼かずにゆでてた」
「お母さんて、どんな餃子つくったっけ」
「ロンドンに暮らしている時、フラットのみんなでよくつくったよ」

餃子をつくっていると、お互いの餃子にまつわる記憶がどんどん引き出されてくる。
同じ粉ものでも、パスタとはやっぱり、話の広がりが違う。

ラー油も手製し、黒酢と醤油と葱でタレをスタンバイして、ゆで始める。
げんこつみたいな不細工な餃子がボコボコ浮いてくる。
いいの、今回は、美しさは二の次。
とにかく、食べたい、の気持ちでつくった迫力の餃子。

山盛りの餃子をふたりでかぶりつく。
しばらくの無言でモグモグしたのち、「あー、やっぱり中国人ってすごいね」と溜め息がでる。
そしてまた次の餃子にかぶりつく。

料理って、自分の手で自分の望みをかなえる、一番シンプルな方法だな、と思う。
だから、料理というものに、とても可能性を感じている。